アパートの壁は 驚くほど薄い。 静かな夜になると 隣の部屋の音がよく聞こえる。 テレビの音 コップを置く音 椅子を引く音。 そしてときどき 誰かと話している声。 だけど少しおかしい。 隣の部屋に住んでいるのは 一人暮らしの男のはずだから。 最初に気づいたのは 三日前の夜だった。 「どういうつもりだ?」 低い声が壁越しに聞こえた。 少し間があって 「いい加減にしろよ」 また同じ声。 返事は聞こえない。 会話のはずなのに相手の声がない。 最初は電話だと思った。 でも違った。 だってその男は まるで 同じ場所にいる誰かと 話しているみたいだった。 昨日の夜は もっとはっきり聞こえた。 「もう隠しても無駄だって」 ガタンと椅子が動く音。 「お前はここから出られない」 ぞっとした。 だって 隣の部屋には 本当に一人しか 住んでいないのに。 警察に相談するか少し迷った。 でも今夜ついに。 はっきり聞こえたんだ。 壁の向こうであの男が言った。 「もういいだろ」 そして少し間があって。 こう続けた。 「いつまで黙ってるつもりだ?」 静まり返る部屋。 その沈黙に耐えきれなくなって 僕は思わず壁に向かって言ってしまった。 『…誰に向かって…言ってる…の?』 壁の向こうで 男がゆっくり笑った。 「やっと喋ったな」 そして言った。 「ずっと聞いてたぞ。 お前がこの壁の中で 息をひそめてる音」
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